学校では何を教えてくれるの? 学校で学んだ理不尽の数々
日本には、何でも学校で教えてくれる、学校で教えるべきだという考えが根強くあります。
確かに、児童・生徒が学校で過ごす時間は、睡眠時間を除けばむしろ家庭より長いかも知れません。
私も、勉学だけでなく集団生活や友情の大切さなど、学校生活を通して色んなことを学びました。
ですが、学校で学んだ理不尽の数々は、幼く未熟な時期に経験することが良かったのかどうか、今も甚だ疑問です。
それはおかしい、あんまりだ、ひどいんじゃない?などと感じたことがあるのは、私だけではないでしょう。
人の記憶は薄れ、忘れるからこそ生きていけるといわれていますが、学童期に抱いた不信感はなかなか拭えませんよね。
今回は、「学校の理不尽」をテーマに過去に感じたモヤモヤについて、このブログを書きながら整理してみたいと思います。
学校で私が理不尽に感じたこと
私が学校で理不尽に感じたことを、思いつくまま書いていきますね。
教員の資質に問題がある場合を含めれば、実際はもっと多くの出来事がありましたが、今回はいわゆるダメ教員の話は外しておきます。
それでも、こんなに理不尽なことがあるわけですから、子どもにとって学校生活はなかなかハードで厳しいものです。
公平であることと競い合うことの矛盾
学校では、公平にしようとか平等に分けようとかよく言われますよね。
ならば、どうして運動会で競い合ったりテストの結果に順位をつけるのでしょうか?
そして、当然ながら何に関しても結果が優れている人が称賛されます。
個体の能力には元々個人差があって、「努力」を正当に評価する尺度も方法もないから、分かりやすい結果で優劣をつけるのでしょうか。
私は、マラソンの最終ランナー(ビリの人)に拍手するという無神経な慣習が理解できず、先生を困らせたことがあります。
参考:ヒヨマルの毎日が宝探し 神様は不公平ですよね?と思うことがあります 「持久走が苦手」https://tokyo2413y.com/2023/10/22/%e7%a5%9e%e6%a7%98%e3%81%af%e4%b8%8d%e5%85%ac%e5%b9%b3%e3%81%a7%e3%81%99%e3%82%88%e3%81%ad%ef%bc%9f%e3%80%80%e3%81%a8%e6%80%9d%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%be%e3%81%99/
そもそもこの世は不公平なのですから、何とか上手にこの矛盾と向き合えるような術こそ学校で教わりたいものです。
「飼育」と「解剖」の同日実施
私の通っていた小学校では、教室でフナを水槽に入れて飼育していました。
水を替えたり餌をあげたり、名前まで付けて子どもたちはフナを可愛がっていたのに、ある日の午後、そのフナは水槽から出されて解剖実験に使われました。
昼休みに、皆なで水槽を囲んでパンくずをあげたりしていたフナのフーちゃんは、30分後に解剖の実験台にされてしまったのです。
私は「止めてください!」と泣きながら訴えましたが、教師は「解剖は、生きている魚を料亭でさばく活け造りと同じで何でもないことだ」と言いました。
「先生、教室でフナを飼うのは情操教育ですよね? お世話の仕方を工夫しながら皆なで命の大切さを学んでいたんですよ? なのに、フーちゃんを解剖するなんてヒド過ぎます! この殺生に何の意味があるんですか?」
そう騒いだ私は、解剖の時間ずっと他の教室に隔離されました。
後日、親が学校に呼び出されて説教されましたが、母は私を叱ることなく「こういうことで人一倍悲しい気持ちになるなら、あなたはこの先苦労するかもね」と言いました。
今でも、あの日の理科室の光景が思い浮かび、止められなかった子どもの無力さと悔しい気持ちが思い起こされます。
子どもを生意気と言うのは教師の上から目線
お勉強の出来る子どもに向かって、生意気だと言い放つ教師がいます。
「4人家族なのでケーキを4等分に切り分けたが、父が食べなかった分を姉が食べたとしたら、姉が食べたのはどれだけでしょう」
この問題の正解は4分の2で、2分の1と答えると「約分を教えていないのに生意気だ」と教師に叱られたりします。
実は、こうした分数計算の教え方については争議があり、2分の1に×をつけられたことに憤る親たちのブログをよく見かけます。
教育指導要領に忠実に従えばここは4分の2と答えて欲しいところなので、2分の1では×になるようです。
ですが、4等分したケーキを2つ食べれば半分なわけで、半分だから2分の1と答えただけで生意気と言われるのはあまりにも理不尽ですよね。
一方、体育の時間に教わっていない縄跳びの難しい跳び方、例えばはやぶさを披露しても生意気とは言われないものです。
子どもの考える力を無視して、学校で教えていなければ子どもは何も知らないはずだという完全な上から目線が、教師の生意気発言を生んでいるのでしょう。
子どもたちの考える力は一人一人違うので、「半分だから2分の1ともいえるけど、簡単に足し合わせると4分の2になるね」ぐらいの感じで柔らかく話して欲しいところです。
自分の価値観を語る教師
「オール3が一番良い」と教壇に立って豪語する教師がいました。
誰にも迷惑をかけず、コツコツ生きていくのが理想的な生き方だというのが彼の持論でした。
「出来る事と出来ない事の凸凹がなく安定しているオール3が一番良い子だ!」といつも言っていました。
私はどうしても納得できなくて、「オール3よりオール5の方が良いのでは? 凹凸だって人それぞれの個性ですよね?」と教師に質問しました。
教師は私に、「オール5や何かに特別優れていれば人目を惹いて他人に影響を与えるから、地味で目立たず全てにおいて真ん中ぐらいのオール3の子どもが先生は好きなんだ」と言いました。
好き嫌いは、教師の個人的な価値観です。
学校では、様々なことに順位や成績をつけて競争させるのに、オール3が一番だなんて矛盾していますね。
私は教師に「それはおかしい」と言いましたが、通常子どもは教師の言葉をそのまま受け入れるので、自分の価値観を教えるが如く教壇で語るのはやめて欲しいと思います。
保護者の力関係が子ども社会に反映される
保護者の力関係が、子ども社会の上下関係に反映されるのも学校の特色の一つです。
親がPTAの役員だったり、サッカー部のコーチだったり、お誕生日会等のイベントを頻繁に開催していたりすると、その子どもは学校や他の保護者から一目おかれ、子ども同士で大きな発言力を持ちます。
地域活動に参加せず、内気で人の噂話に興味を示さないような親(私の母はそういう親でした)は、保護者会でも常に受け身で声の大きい親に言われるままでした。
その親の力関係が子ども社会にそのまま反映され、子どもは後ろ盾のない弱い立場に置かれることになります。
親が子ども社会に影響を与えることができるのは短い期間ですから、強い親の存在が果たしてその子どもにとって良いかどうかは分かりませんが、親の力関係で子どもの強弱が決まるという呆れた学校の実態は今も健在のようです。
学校や大人が常に正しいとは限らない
学校や大人が常に正しいわけではないと、なるべく早いうちに覚えておくとよいでしょう。
もっというなら、「正しい」は絶対的な概念ではありません。
それでも、様々な国が法律を作って秩序を保とうと永遠に試行錯誤を重ねるように、自分がどうあるべきかを一人ひとりが生涯をかけて自分に問い続けていくのが本当の意味の学びだと思います。
学校には理不尽なことが沢山ありますが、学童期はいずれ必ず終わります。
そして、学校という狭い世界から社会へ出たら、社会には理不尽の数と同じだけ多くの逃げ場や選択肢があることに気づくでしょう。
「考える力」を養い、どんな時も自分で自分を守ることが大切です。
まとめ(学校生活は必ず終わる)
こうして改めて振り返ると、学校には理不尽なことがビックリするほどたくさんありました。
学校に通う本人にとっては、明日も明後日も永遠に続くように思える学校生活も必ず終りますから、社会を生き抜くための一教科として理不尽の数々を受け入れるしかないかも知れませんね。
ただ、学校の理不尽によって自分が深く傷つくようなら、期間限定の学童期ですから不登校や転校もアリだと思います。
とはいえ、幾つになっても・誰にとっても・どんな場合でも、残念ながら理不尽なことに出くわす機会がなくなることはないようです。